瞑想は時間をかければいいというわけではない。
ダラダラと時間をかけてしまうと瞑想の極致には到達しない。
なぜならば人間の脳は常に刺激を好んでいる、待っている。
刺激がない脳には倦怠感、惰性、抑うつ状態が押し寄せる。
瞑想は特に実感を味わいにくいものだ。
実のところ偉いお坊さんでも、座禅だの瞑想だの講釈をたれ、ありがたい教えを授けてくれる一方で、深い瞑想状態を味わえていない人が多いらしい。
より
偉い高僧の方々でも瞑想の極致に到達できるのはほんの一握り(しかもその深さや到達度は岩波式覚醒瞑想で誘導されるとショックを受けるぐらいの差がある)。
毎日毎日座禅を組む機会があるにも関わらずだ。
脳の壁を突破するすべがないから、ただ闇雲に瞑想をするしかない。
(それでも何か拾い物があるのが、瞑想なのだが。)
ならば我々一般人は、いくら瞑想に興味があろうとも、その極致に到達するのは難しいだろう。
何よりも怖いのは、なんにも変化のないまま無為に時間を過ごした時の脳の惰性化だ。
これが非常にやばいのだ。
常に進化し続けられない瞑想は、やればやるほど退化していく。
脳が死んでいく。
脳は一度覚えた感覚(この場合は瞑想状態)を忘れないと言われているが、無意味な時間を費やして惰性化した脳は、どんなに頑張っても昔体感したレベルでしか瞑想状態を得られなくなる。
つまり永久に進歩しなくなる。
理想は常に脳が深く掘り下げられて、その体感が更新していくことだ。
だが、変化もなく努力した割には体感も結果もついてこないとなると焦る。
焦るとイライラや雑念が押し寄せてくる。
今度はそれらを排除しようとして戦ってしまう。
受け流さないければいけないことは頭ではわかっているが、どうしても効率良く進めるために必死に対策してしまう。
その対策すら理性の部分であるから、ますます頭が重くなっていく。
こうなるともう一生瞑想で成果を挙げられなくなる。
それならば瞑想や座禅などをしてきた時間を他の有意義なことに振り向ければよかったと後悔することになるかもしれない。
あるいはもはや体感での悟り追求を諦め、本を読みまくり知識が増えていく(こういう人間をたくさん知っている)。
いっちょまえに瞑想論を大学教授のように語ることができるけれど、しょせん瞑想状態を深く味わえない人間の言葉は薄っぺらい。
こうなると、いつのまにか理性や知恵のレベルではないところで己を探求する目的であったのに、ただの頭でっかちと理性肥大化人間になっているに過ぎない。
私もこうなる恐れがあったし、実際そのルートを歩んでいた。
進歩ではなく退化、レベルアップではなくレベルダウン、しかも時間をかけての答えがこれなのだ。
平凡が嫌で打破しようと瞑想をやるが、平凡を強化する、錯覚でも自分の脳が大した事がないことに気づく。
これはこわい、おそろしい、やばい。
時間が限られた中で私達は勝負していく。
そのためには何の役に立たないことにすぐ見切りをつけるべきだと思う。
可能性だけじゃ、大きな効果は不可能だ。
脳はすぐ惰性化する。腐っていく。
そして死んでいく。自分の人生は何だったのか、という後悔はもうたくさんだ。
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