瞑想でもヨガでも禅でも何でもいい。
深い体感を伴わない瞑想は、取り組んだ労力に比べ、効果の乏しさを考えると恐怖でしかない。
瞑想を長くやっても一線を超越できないのに、これ以上先に進めるわけがない。
可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近い。
何度も熱弁してきたように、体感のない瞑想は無駄だ。
浪費した時間からしたら、マイナスだからだ。
岩波英知先生は、体験のない瞑想は恐怖しかないと言っていた。
瞑想をやるからには体験してなんぼだ。
体験のない瞑想に何の意味があるのかと私も思う。
それがない瞑想ならば、多くの書籍を世界中からかき集めて、精神世界について研鑽を磨いていたほうが遥かにマシだと思う。
超越した瞑想状態を体験したことがない指導者が、瞑想を教えている矛盾もそうだし、例え瞑想で悟りに近づいた指導者であっても、その弟子に同じ超越した瞑想状態を誘導できない現実もある。
いくら高名な指導者であっても、瞑想セミナーや瞑想合宿を行っても、瞑想をする「場所」を提供することができない。
尊敬されているのは、指導者の教え、佇まいであって、決して参加者自らを深い瞑想に導いてくれる能力ではない。
数々の瞑想セミナー合宿で、どれだけ多くの人が内心幻滅しているだろうか。
自分の内面の心の傷、抑圧され鬱屈した感情、ネガティブな思考、孤独、愛情不足、人間関係のストレス、仕事の重圧、パワーや集中力の減少……
これらをなんとかしようと瞑想に時間とお金をかける。
しかし、瞑想だったらなんとかなると思うかもしれないが、そんな瞑想は甘くない。
そうは問屋が卸さない。
瞑想は心の内にネガティブ要素やマイナス思考が秘められている人にとって、逆効果になることすらある。
そうなったら、まだ何にも効果がなかったほうがマシだ。
瞑想は心の扉を一瞬開いた時、中途半端な瞑想の深さでは、ネガティブな精神状態という闇に飲まれてしまう。
つまり、瞑想ほど心を迷わせるものはない。
自分のできれば秘めておきたい、ないものとしておきたいトラウマや心の弱さを覗くこと──。
これを一人でやってしまうと抱えきれない抑圧に心を押しつぶされる危険性もある。
瞑想はうまくいかなくても時間の無駄、中途半端に瞑想に入ってしまうと、魔境を見る。
一人で安易に手を出すものではないのだ。
そしてめちゃくちゃに手強い奴がいる。
瞑想の最大の強敵となるものが、自分自身だ。
こいつがとにかく障害になる。
だから、心が落ち着くどころか、もどかしくなりそわそわし苛ついてしまう。
全てあるがまま受け入れろと言われても、そんな自分を受け入れられない。
なりたい自分を邪魔してくれる自分を受け入れるわけがない。
これも、瞑想が中途半端に甘くて浅いからだ。
瞑想をやったばっかりにコンディションがひどく悪化してしまうのは、開けたらいけない深淵のドロドロした扉を開かせ、見てはいけないものを見て、触れてはいけないものに触れてしまうからだ。
そこまですらたどり着かないのがほとんどにしても、一部の人は処理できないのに、足を踏み入れてしまう。
冬装備のない冬山登山、空気タンクのないダイビング、パラシュートのないスカイダイビング、着陸装置のない旅客機のようなものだ。
かといって、インド哲学や禅や瞑想や潜在意識の理論が卓越しても何の意味もない。
すべて強烈な実感がないから、いつまでも上達できない。
そして現在すごい感覚を味わえていない人間は、一生そこに到達できない現実がある。
いつか瞑想で願いが叶うといいなということはありえない!
岩波先生は「実感ゼロから一は生まれない」と言う。
人間がその人生を大きく変える時、強烈な実感がある。
奇跡的実感、神秘的実感、悟り的実感、雷に打たれたような実感、スーッと完全に心が定まる実感…
これがあるから、人生が大きく飛躍する。
仮に変性意識状態、瞑想状態が一にたどり着いても、日常の惰性に流され、十にも届かない。
ゼロはゼロ、一は一だ。
瞑想をやるからには結果を出すしかない、さもなくばやる義務はなにもない。
瞑想をやっている人に対して、非常に失礼ないことを書いているのをわかった上で、あえて書いている。
世の中のマインドフルネスとかヨガとか瞑想とかスピリチュアルの「ごっこ遊び」の情報に触れると、そんなものでいいのか!?と憤ることがある。
ライトにやるのもいいかもしれないが、心の内に潜っていく行為は下手をすると人生のコンディションをひどく落としてしまう。
特に瞑想をやるような人は、もともと感受性がある人が多い(その感受性を持ってしても、超越した瞑想状態にはほとんど入れないが)。
下手に手を出して大やけどを追わないように、瞑想は覚悟を決めてやるべきだと思う。
これほど主体的に取り組まなければならないものはないのだから。