我々は理性という鎧を守って世の中を生きている。
しかし、この鎧がただの重荷になってはいないだろうか?
もしくは理性という鎧があまりに重すぎて、武器を持つことができていない状態になっていないか?
あまりに理性で自己防衛をしてしまうと、一番大切な情動の炎が尻すぼみになってしまう。
我々は子供の頃、もっと輝いていてはずだ。
感情が豊かで、見ること知ること体験することすべてが感動に満ち溢れていたはずだ。
しかし今はどうだ?
理性的過ぎるという毒に全身を蝕まれていないか?
何か事を成そうとした時、理性で状況判断しすぎて夢を捨てていないか、諦めていないか?
生きている実感をも損なわせてはいないか?
そしておっそろしいことに、我々が生きているこの社会では理性の大切さを説きながら、本能と情動を輝かせて生きていこうとする人を排除しようとしている。
そうでありながら、出世したり成功をおさめるのは、理性ではなく本能と情動を躍動させた人だけという矛盾した現実がある。
人間の最も大切な本能と情動を尻すぼみにさせる現代の人間社会だ。
ということは、ただ平凡に生きている人は、ただ理性をふんだんに使い、生命力を削って老い衰えていくということになる。
でも、瞑想や気功でもいい、とにかく理性じゃない、もっと別の深いところに人間の最も大事なものが隠されている、そう感づいた人が私達だ。
我々は理性じゃないもっと根っこのもっと大きなもっと可能性のある分野を探求しようとするいわゆる脳と精神の冒険者だ。
悪けれど、ただ平凡に生きている人は絶対に興味を持たない分野を我々は追求し続けている。
だが! 瞑想を例に取るならば、そんな素晴らしい分野である瞑想にさえ、我々は理性を使って、瞑想状態を深めようとし、ある真理に到達しようとしている体たらくだ。
理性の限界に気づいている人間でも、理性世界とは別の次元にある瞑想世界において理性に頼ってしまうおっそろしい現実!
こんなことでは一生追求しても本能と情動を刺激し、脳力を覚醒させることには至れない。そして瞑想によって、生きる意味と真理を見出すことなんて不可能だ。
だが、本能と情動が刺激され、人間の最もエネルギーに満ち溢れているこの分野が覚醒した時、大げさだが人は無敵になれる。
少なくとも絶対感を持った存在になれる。
心と脳が柔軟でありながらぶれない、覚悟と肝の座った、そして感動に満ち溢れた人間にパワーアップできる。
生きている実感がなければ生きている意味は無いと思う。
理性のみでは実感を得られない。
そこに感動があって、はじめて理性の喜びも得られる。
ならば、せっかく瞑想をやるのならば、ダイレクトに本能と情動の一番深いところを刺激できる瞑想法に取り組んだほうがいい。
理性を使う、使わないの低レベルの自分との戦いなんかしていたら、あっとういまに人生は老いの方向に進んでいってしまう。
本能と情動が刺激された時、ものすごい感動が待っているだろう。
生きている意味とか書いたが、結局意味なんて求めてもしょうがなく、要は生きていて感動を味わえるかどうかだけの単純な話にすぎない。
原始的で情動的で本能的感動を味わえた人が人生の勝者だ。
私は岩波先生の覚醒瞑想(脳覚醒技術)を受けてから人生が変わった。
瞑想で迷走していたのが180度方向転換できた。
人生の一番の意味は何なのかつかむことができたし、先生の技術を通して実際に体感できた。
岩波先生も言っているが、実感が無い理性や知恵や理屈の世界でいくら偉そうに講釈しても、たった一回の深い感覚の前には鼻くそに過ぎない。
子供の頃のような本能が全開にしていた感覚を私は取り戻すことができた。
情動が豊かになった。
そして情動に振り回されず、コントロールできるようにもなった。
情緒不安定だった私だが、ぴたっとそれがなくなった。
不安があると自分で抑制できず、逆に振り回されていたのだが、不安自体が小さく感じるようになった。
理性ですべてを解決しようとしていた時の私からみたら信じられない変わり様だ(従来の瞑想法では私は理性で何とかしようとしていた。当時は気づかなかったが、くだらない知恵を使っていたようだ)
本能・情動が再生された私が理性の力が衰えたかというとそうでもない。肝
心な時に自分を律せられるようになった。
かといって理性に飼われている惨めな状態でもない。
自分というものが、理性の枷から大きく外れて自由になった。
本当に楽になれた。
なぜ自由になれたのか、それには理由がある。
覚醒瞑想ほど深い覚醒トランス状態に入れると、自動的に、あるいはこちらの観念で、自由への障害となっている抑圧や壁を破壊できるようになるのだ。
そこが最強の瞑想法のすごい効果を与えてくれる。
情動を大きく揺さぶり、理性の枷を外して、自分を存分に人生という舞台で発揮しよう!
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