いつまで経っても、瞑想が深まらない。
覚醒したいけれど、理性ばっかりが肥大化する。
最初の瞑想への期待感が潰え、しかし捨てることも怖くて、いつまでもダラダラ惰性に続けている
こうして多くの人は、瞑想に幻滅を感じる。
しかし、幻滅する対象は瞑想法ではない。
何より自分自身にがっかりする。
瞑想から効果を少しも感じ取れない。
苦痛、退屈、雑念ばかりとの戦いに入る。
少しも気持ちよくならないし、神秘体験も来ない。
達観、気付き、悟りに至らない。
惰性化した瞑想状態から離れられないのは、自分を捨てられないからだ。
しかし、捨てられない。
捨てたいけれど、捨てることが怖い。
意識的には捨てようと思っても、無意識的に自分を守ってしまう。
だから、いつまでも一線を越えられず、突き抜けられない自分に心のどこかで幻滅していく。
瞑想を経てパワーアップするつもりが、パワーダウンしてしまう。
瞑想とは残酷なものだ。
自分の無力感に打ちのめされやすい。
だからこそ、ロケット的な爆発力が必要だ。
自分というリミッターやストッパーを劇的に打ち壊すほどの推進力がなければならない。
瞑想が劇的に深まるとき、いわば覚醒するとき、自分という殻を散々打ち壊さないといけない。
これまでの固定観念、常識、理性、防衛本能、自分で無意識的に決めている限界、これらのリミッターを外すためには、誘導されたほうが手っ取り早い。
瞑想には師匠が必要だ。
迷いやすいから、導ける人の存在が大事だ。
いつでも軌道修正してくれる。
多くの瞑想指導者(ヨガや座禅も含む)は、自ら苦労して瞑想から効果を引き出しています。
だからこそ、人を導けるわけだけど、限界もあります。
いくら瞑想の達人が経験値が豊富だとしても、同じ人格でも精神でもなく、他人にはそのコツが適用できないという問題があります。
瞑想状態が突き抜けるまでに覚醒した人が、人を覚醒させられる保証はありません。
あくまで突き抜けるのは己の脳のみなのだ。
いくらありがたいアドバイスを貰っても、せいぜい軌道修正がいいところで、それも必要なものだけど、突き抜けるまでは行かない。
だからこそ、言い方は悪いけれど、強制的な瞑想の極地に至る方法が一番だ。
その後から、自力で瞑想状態の深まりを追求していけばいい。