瞑想という行為は、座禅やヨーガやスピリチュアルや自己催眠や自律訓練法などあらゆる分野で使われている。
自己啓発で取り入れている所も多いし、マインドフルネスとして社員教育に使っている有名企業も多いし、修験道の修行もある種、動きのある瞑想と言えると思う。
つまり瞑想は非常に広く、我々の生活にとても密接だ。
大自然のところにいて、目を閉じて滝の音や川のせせらぎ、森林浴、マイナスイオンを浴びる行為も瞑想と言えなくもない。
逆にそのそちらのほうが瞑想をしようという堅苦しさがないぶん、心が洗われて日頃のストレスも抜け出てくれるかもしれない。
しかし、いざ瞑想をやろうと思うとうまくいかない。
それはなぜだ?
なぜ昨日は調子が良かったのに今日は駄目になったのか?
昔、瞑想状態にふと深く入ってしまって、とんでもない恍惚感を味わった人が、なぜあの時の奇跡が起こらないままなのか?
これは人間には有意識と無意識というものがあることが大きな原因だ。
有意識が無意識の拡大を排除するという性質による。
理性を持った自分が、理性を飛び越えた世界に入ることに恐怖を覚えてしまうのだ。
普段有意識で我々は生活しているが、いざ自分の中で無意識が拡大しようとすると、同じ自分なのに一気に敵対勢力になる。
有意識と無意識は、同じ意識のはずなのに分離している。
そしてお互いに邪魔をする。
私はこの二つの間でとても苦しんだ。
有意識が「こういくぞ」と決めても、無意識が途端にストップを掛ける。
突き進みたいのに、なぜか勝手に恐怖や不安を使って行動を妨げる。
私は自分の中の抵抗を外すために瞑想をやった。
しかし、今度は無意識領域が拡大してくれる理想の状態に入ろうとすると、「それは危ない、やめろ、入り込むな」と瞑想状態の深まりを何ものかが妨げる。
深い瞑想状態、つまり無意識領域の拡大状態は、未知の世界で私自身足を踏み込んだことはない。
だから勝手に危険だと解釈するし、怖いと思う。
そのうち、瞑想の深く入ろうと考えに考えてしまい、無意識の拡大どころか、理性の肥大化、有意識の絶対的優位になっていった。
無意識の世界に入り込むことはとても難しいのだ。
理性を使った瞑想ほど空虚なものはない。
瞑想をやればやるほど、無駄な思考が入る。
考えないように頑張っても、その時点で考えてしまっているし頑張っている。
自分が瞑想状態に入り込むのに一番邪魔なのは、もう一人の自分の意識だ。
超越瞑想、ヴィパッサナー瞑想などの各瞑想法、マインドフルネス、ヨーガ、スピリチュアルセラピー、座禅修行…手を変え品を変えて、突破を図るが、結局いつも同じことになってしまう。
自分の中の意識が変わらない限り、どんなに方法を変えても必ず行き詰まる。
しかし、同じことをダラダラとやるよりはマシだから、多くの人が瞑想の旅を続ける。
あれがいいか、これがいいか、そして何も変われない。
どうしても高くそびえ立つ壁を破壊できない。
いくら迂回しようとしても、壁は横にも永遠に続いている。
迂回した分だけ、時間と活力、あるいは金銭的な損失が発生する。
一生堂々巡りをして、人生が変わらない。
瞑想が行き詰まるのは、無意識と有意識の矛盾、未知への恐怖と不安、思考と防衛本能のせいだ。
残念ながら、自力でこの壁を突破をほとんどの人ができない。