瞑想とは『無』になること。
無意識の中へ深く長く入り込むこと。
無意識には様々な情報が渦巻いている。
そこにすべての問題解決のヒント、そしてインスピレーションの源泉がたくさん潜んでいる。
しかし、無意識の世界には努力では入れない。
瞑想をする努力が無意識の扉を逆に閉ざしてしまう。
いくら考えても知恵を使っても、けっして無意識に入れず、顕在意識だけが膨らんでいく。
顕在意識には人間の可能性も神秘性もなにもない。
あるのは使い古された知識と情報だけだ。
誰もが持っているものしかない。
そこでいくら頑張っても、人と差がつくことはない。
瞑想状態に入れば顕在意識を封じ込め、圧倒的な割合を占める無意識の扉を開き、その中に入り込める。
とはいえ、それは幻想だ。
瞑想状態だけじゃあまりに浅い。
最強の瞑想状態に入らない限りありえない。
だが、最強の瞑想状態には努力や知恵じゃ無理だ。
それはなぜか?
努力すれば報われないなんて、じゃあどうすればいいのか?
無意識状態がむき出しになるためには、意識を捨て去らなければならない。
つまり無になるしかない。
だが、人はどうしても無意識状態になるために、考えてしまう、見ようとしてしまう、アクションを起こそうとしてしまう。
理性を使って入り込もうとする以外の術を知らないからだ。
完全な無意識状態(最強の瞑想状態)に入るためには、理性を捨てるしかない。
無意識に入ろうとすることは、理性からしたらあまりに不合理で非論理的で非科学的だ。
理性は無意識の働きを妨げようとするから、当然の防衛反応だ
無理に入ろうとしても考えても決して入り込めない。
理性を捨てられない人間に無意識が扉を開いてくれることはない。
よし、理性を捨てた、これからは考えないで瞑想をする!
そう決意したところで、それもまた理性を使ってしまっている。
この矛盾にほとんどの人が瞑想することを諦めたり、惰性化していく。
ダラダラダラダラ万が一の可能性にかけて瞑想を続け、そのうちやらなくなる。
瞑想はだからこそ、一人ではやっていけない!
導くものがいなければ、一生理性を使い、顕在意識の浅い表面的な努力で、未来のないエネルギーを使い果たしていく。
瞑想は一人でもできるだけに、独力でやろうとしてしまうが、それが大きな間違いだ。
無意識に入るために意識を使ってしまうのが独力の限界だ。
これでは一生最強の瞑想状態に入るなんて不可能なことがわかるだろう。
人生は限られた時間である。
きっぱり瞑想を捨て去ってもっと有意義なことに時間を割くか、実力と能力に満ち溢れた瞑想の指導者に誘導してもらうか、中途半端だけは良くない。