生産性のない瞑想は瞑想ではない 抑圧とストレスですり減る心を劇的回復させる瞑想の効果
私たちは社会の一員であり、社会的動物だ。
この社会というものがとても厄介で、ともすれば非常に抑圧的で私たちの心を抑えつけてくる。
そして社会全体が非常に利益を追求する、行き過ぎとも言える資本主義、拝金主義になっている。
当然社会の一員である我々は、利益を追求しないといけないし、そのために個々人のマインドを無視して、成果を出すように追い立てられる。
みなストレスを感じながら生きざるを得ず、それでも頑張って働くことが生きることだと思い込まされている。
いつしかマインドが大事にされなくなって、骨の髄まで実利的な思考に支配されている。
そこに疑問を持った人が瞑想に興味を持つ。
実利的過ぎる社会で消耗した自分を取り戻すために。
今後、ますます瞑想は社会をギスギスしたものにしないためにも必要とされるものだと思う。
しかし、あくまで社会の一員である私たちは、社会的に生産性のある人間であることも大事だ。
社会的な廃人になってまで瞑想に没頭し続けるのはどうかと思うし、そもそもどうやってそれで食べていくんだ?という疑問が生まれる。
つまり、理想的な瞑想とは、社会で能力を存分に発揮できるために利用するものであらねばならないと思う。
よく瞑想やマインドフルネスをやって、心が満たされてしまって、生きる意欲が減退したという危険性を言われることがある。
だが、それはその人が瞑想を逃避に使っただけのことだと思う。
瞑想に逃げ込まなくても、そういう人はいい向精神薬があればそれに依存するかも知れないし、麻薬の類に手を染めるかも知れない。
アルコール中毒になる人だって逃避の最たるものだ。
しかし、本当の瞑想で得られる効果は、モチベーションは上がるし、脳は覚醒していくし、ストレスも吹っ飛ぶから、次に進むエネルギーがどんどん湧いて出てくる。
自分を抑圧してきたものから吹っ切れるから、脳も心もとにかく自由になる。
自分のやることがうまくいくようになるし、その風も感じられる。
運もとても良くなる(オカルト的な意味ではなく運を掴める脳に切り替わる)し、瞑想ほど社会的に生産性を高めてくれるものはない。
いくら会社が利益を出すように強制してきても、当の本人がストレスで潰れていたのでは何の意味もない。
それを強いる会社は社員を使い捨てとしか見ていない。
ブラック企業の例だけじゃなく、悪徳芸能事務所が、タレントを使い捨てにしているような例はたくさんある。
だから、私たちは自分で自衛のための武器を身に着けなくてはいけない。
そのために一番手っ取り早いのが瞑想だし、瞑想を極めるまで行かなくても、途中経過で大きな効果を感じられるのだから、もっともっと瞑想が広まって欲しい。
どうせやるなら短期間で圧倒的な効果を感じられる覚醒瞑想(誘導式の瞑想)が一発だ。
たった一回か二回で、効果をなかなか感じられない瞑想法の効果を上回ってしまうのだから。
瞑想を逃避で使うのではなく、成長のために、人生を変えるために、そして生産性のある人間になるために使って下さい。
人間の脳の持つ爆発的な可能性に多くの人に気づいてほしいです。
瞑想の表面的な効果に騙されるな。
瞑想にはいろいろな種類があるが、どの方法も心に平穏と静けさをもたらしてくれる。
実際にその効果をどこも語っているが、無意識の底から抑圧がなくなった上での平穏さと、表面的に『臭いものに蓋』の平穏さは違う。
もちろん、心がかき乱されている状態が毎日続けるよりも格段にいいわけだが、瞑想の効果をそのレベルで留めていくことはもったいないことだと思う。
瞑想の可能性はもっと高く、もっと深く、人智を遥かに超えた効果をもたらしてくれるのだ。
表面的に心に静けさがやってきても、もっと奥の無意識にはドロドロとした抑圧がある。
この抑圧は程度の差はあれ、誰でも持っている。
誰もがこの抑圧と折り合いをつけながら生活をしているし、この抑圧が有意識にまで上ってきたら、それは神経症になったり、メンタルの不調に陥る。
瞑想で表面的な効果だけで、もっと根っこのところを無視していると、いつか溜まりに溜まった抑圧のエネルギーが爆発してしまう。
それは生きているだけで不安になったり、孤独感がひどくなったり、つねに神経がピリピリしたり、いい感情が出てこなくなったりする。
瞑想を決して、抗不安薬や向精神薬として使ってはいけないと思う。
一時しのぎは、文字通りしのげるのは短期間だけだ。
人生は長いし、人生のどこかでガタが来てしまったら、私のように苦しい思いをすることになる。
悩みは抑圧をするからどんどん悩みが悪化する。
抑圧された悩みのエネルギーを、それこそ無意識から解放することができたら、悩みは悩みではなくなる。
なんでこんなことにくよくよ悩んでいたんだと思う。
そして自分を受け入れることができる。
あるがままに生きられるし、すべてのとらわれから解放される。
私はこの体験があり、本当に生きるのが楽になった。
下手な瞑想法は、表面的に顕在意識の上で平穏さを取り戻させることで、もっと解決しなくてはいけない問題の根っこに蓋をしてしまう。
解決は先延ばしになると同時に、抑圧だけは気づかないうちに溜まっている。
そして抑圧のエネルギーが爆発した時、完全に不安・恐怖・焦燥感・抑うつ感・孤独感・怒り・哀しみ・無感動に完全にマインドが支配されてしまう。
これは抗不安薬などに頼り続けて、日々をしのいでいると、根本原因を解決できないまま、いつか薬の効果が現れなくなった時、一気に悪化するケースと似ている。
そもそも瞑想をやるからには、一番根底の部分から自分の心を浄化することになったはず。
抑圧したものを解放させるためのはず。
しかし、表面的な瞑想の効果は、逆にそれを見えなくさせてしまう。
そしてせっかく味わった効果をまた味わおうと、人は頑張ってしまう。
有意識オンリーの瞑想をして、表面的な効果すら味わえなくなっていく。
あなたの瞑想が行き詰まる理由 これでは最高の瞑想状態に入れない
瞑想という行為は、座禅やヨーガやスピリチュアルや自己催眠や自律訓練法などあらゆる分野で使われている。
自己啓発で取り入れている所も多いし、マインドフルネスとして社員教育に使っている有名企業も多いし、修験道の修行もある種、動きのある瞑想と言えると思う。
つまり瞑想は非常に広く、我々の生活にとても密接だ。
大自然のところにいて、目を閉じて滝の音や川のせせらぎ、森林浴、マイナスイオンを浴びる行為も瞑想と言えなくもない。
逆にそのそちらのほうが瞑想をしようという堅苦しさがないぶん、心が洗われて日頃のストレスも抜け出てくれるかもしれない。
しかし、いざ瞑想をやろうと思うとうまくいかない。
それはなぜだ?
なぜ昨日は調子が良かったのに今日は駄目になったのか?
昔、瞑想状態にふと深く入ってしまって、とんでもない恍惚感を味わった人が、なぜあの時の奇跡が起こらないままなのか?
これは人間には有意識と無意識というものがあることが大きな原因だ。
有意識が無意識の拡大を排除するという性質による。
理性を持った自分が、理性を飛び越えた世界に入ることに恐怖を覚えてしまうのだ。
普段有意識で我々は生活しているが、いざ自分の中で無意識が拡大しようとすると、同じ自分なのに一気に敵対勢力になる。
有意識と無意識は、同じ意識のはずなのに分離している。
そしてお互いに邪魔をする。
私はこの二つの間でとても苦しんだ。
有意識が「こういくぞ」と決めても、無意識が途端にストップを掛ける。
突き進みたいのに、なぜか勝手に恐怖や不安を使って行動を妨げる。
私は自分の中の抵抗を外すために瞑想をやった。
しかし、今度は無意識領域が拡大してくれる理想の状態に入ろうとすると、「それは危ない、やめろ、入り込むな」と瞑想状態の深まりを何ものかが妨げる。
深い瞑想状態、つまり無意識領域の拡大状態は、未知の世界で私自身足を踏み込んだことはない。
だから勝手に危険だと解釈するし、怖いと思う。
そのうち、瞑想の深く入ろうと考えに考えてしまい、無意識の拡大どころか、理性の肥大化、有意識の絶対的優位になっていった。
無意識の世界に入り込むことはとても難しいのだ。
理性を使った瞑想ほど空虚なものはない。
瞑想をやればやるほど、無駄な思考が入る。
考えないように頑張っても、その時点で考えてしまっているし頑張っている。
自分が瞑想状態に入り込むのに一番邪魔なのは、もう一人の自分の意識だ。
超越瞑想、ヴィパッサナー瞑想などの各瞑想法、マインドフルネス、ヨーガ、スピリチュアルセラピー、座禅修行…手を変え品を変えて、突破を図るが、結局いつも同じことになってしまう。
自分の中の意識が変わらない限り、どんなに方法を変えても必ず行き詰まる。
しかし、同じことをダラダラとやるよりはマシだから、多くの人が瞑想の旅を続ける。
あれがいいか、これがいいか、そして何も変われない。
どうしても高くそびえ立つ壁を破壊できない。
いくら迂回しようとしても、壁は横にも永遠に続いている。
迂回した分だけ、時間と活力、あるいは金銭的な損失が発生する。
一生堂々巡りをして、人生が変わらない。
瞑想が行き詰まるのは、無意識と有意識の矛盾、未知への恐怖と不安、思考と防衛本能のせいだ。
残念ながら、自力でこの壁を突破をほとんどの人ができない。
ヒマラヤ聖者 ヨグマタ相川圭子さん出演のマツコの知らない世界 マツコのイライラ解消!?瞑想の世界を見て
たまたまTVを見ていたら瞑想のことをやっていて、それも瞑想みたいなものとは一番縁遠いマツコの番組だということで興味を持ってみた。
出演者はヒマラヤ聖者 ヨグマタ相川圭子さん。
どう主観の世界で終始する瞑想をマツコに説明するか関心を持ったが、気持ちがスッキリしたという瞑想の効果で終わっていた。
相川圭子さんの雰囲気はとてもやわらかくて親しみが持てるから、瞑想の紹介者としてはうってつけだと思う。
瞑想はそんなものじゃないよ、と瞑想を深く知っている人ならばいいたいけれど、そこがテレビの限界なんだろうな。
ヨガがいつのまにか気持ちをすっきりさせるものとして世の中に紹介されているように、瞑想も一般化したらスッキリして、ストレス解消できるレベルで紹介されるんだろうな。
それは寂しいと同時に、より瞑想を多くの人がやることにつながれば嬉しいことだし、説明しづらい瞑想のことを紹介しによくTVに出演してくれたと思う。
しかし、最後マツコに瞑想をやらせていたが、マツコのイライラはまったく解消できなかった。
逆にイライラのもとに執着してしまい(笑)、まあ、あの場面で瞑想をさせるのは失敗だったのかも知れない。
そもそもマツコは精神世界系のことは嫌っているし、自己啓発書を書いている人たちのことをボロクソに言っていたのも聞いたことがある(それはあたっているが)。
まあ、マツコは正直だと思う。
あんな短い時間じゃ無理でしょう。
ましてイライラさせるスタッフとテレビカメラが見守る中で瞑想を行うなんて、一番むずかしい環境だ。
ヨグマタ(宇宙の母)と呼ばれる相川圭子さんは人間の意識の究極の瞑想状態であるサマディに到達したとのこと。
客観化、数値化はできないため、本当に究極の瞑想状態に到達したかどうかは本人しかわからないけれど、ともあれインドで尊敬を受けている方なのは確か。
瞑想をやっている人にとって、相川圭子さんの名前やその著作は目にした人は多いと思うが、いくら相川圭子さんがすごい瞑想状態を味わったとしても、そのセミナーでみんなに味合わせられることはできないという問題は避けようがない。
そこが瞑想の難しいポイントだ。
マハリシやバグワン・シュリ・ラジニーシにも同じことが言える。
本当に究極の瞑想状態や悟りにまで達したかは誰にも証明できないし、その弟子に味あわせてやることもできない。
瞑想はその人だけが「いっちゃって」絶頂感に至っても、同じ体感を別の人に味合わせられない。
バグワン・シュリ・ラジニーシの瞑想教団がカルト化して、アメリカで大問題を引き起こしたのも、ラジニーシの弟子たちが仮にラジニーシが素晴らしい人物だったとしても、完全に歪めてしまったからだ。
瞑想はいくら師匠がすごくても人に伝えられない。
本質的に継承されない。
ぷっつりと断絶してしまう。
それは瞑想セミナーやスピリチュアルのワークに参加しても、参加者の資質や取り組み方で大きく効果が変わってしまう。
まったく瞑想に入れない人もいれば、ストレス解消した人もいれば、感情が爆発して抑圧が抜け出て呪縛から完全解放された人もいる。
だから、いくら名の知れた瞑想指導者のセミナーや合宿といえども、効果は保証されないんだな~。
私の尊敬する岩波先生は、誘導専門だ。
誰にでもそれこそバグワン・シュリ・ラジニーシの体感した瞑想状態を遥かに超えた体験ができる。
誘導されるだけ(先生に言うとおりにやるだけで)で勝手に先生が、最強の究極の瞑想状態に誘導してくれるから、施術前のドキドキはあっても、とんでもないすごい体感ができる。
ここまで瞑想状態を究極に誰にでも誘導できる技術を開発したという意味において、岩波先生は世界で唯一人の天才だと思う。
岩波先生自身は、このすごい体感を誘導されることはできないのだが(笑)。
ただ岩波先生の名誉のために言っておくと、先生は呼吸法の達人で、顎の切開手術を何時間も麻酔無しで完遂された(もちろん患者側として)ぐらいすごい。
だから誘導技術も突き抜けるものに成長させたのだろうが。
話が脱線してしまったが、世の中の人間はみんなイライラしている。
満員電車に乗ってはイライラ、渋滞にハマってはイライラ。
人間関係がうまくいかずイライラ。
イライラ解消だけでも、瞑想は本当にいいものだ。
瞑想をして逆にイライラしないためには、修行も必要だがもっと多くの人が瞑想や呼吸法をやって、社会全体がギスギスしないで済むようになってほしい。
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この日本に最強の瞑想状態がある
世界最強の瞑想法はこの日本にある。
厳密に言えば東京と大阪に。(ある鬼才がいるところすべてに)
なんともありがたいこと。
そして脳覚醒瞑想を受けることができている私の運の良さ!
人によっては超変性瞑想とも、瞑想トランスとも、瞬間瞑想とも表現されているこの瞑想法は、超鬼才岩波先生のプログラムのことだ。
脳覚醒を成し遂げたい方や魂を解放させたい方、あらゆることから自由になりたい方、絶対におすすめです。
宗教色もなく、変に偏った思想もないから安心だ。
まあ岩波先生については非常に多くの人が絶賛しているし、それ以上の圧倒的体感を実際に味わうことができる。
こんなすごいレベルで瞑想法を提供できる人は日本にまずいない。
世界的に名前がすごく知られている人もたくさん来ている。
効果が圧倒的に違うからだ。
瞑想や精神修行に興味を持っている人で受けないままでいたら、目の前に100億円が落ちているのに気づかないぐらいやばいことをしている。
もったいないし、100億を払っても誰も成し遂げられなかった究極の瞑想状態を岩波先生は導いてくれる。
世界中からも通ってきている人がいることを考えると、世界にもいないのであろう。
そして、何より誰もが驚異的な宇宙的体感、奇跡の神秘体感ができる。
宇宙の真理、叡智、ましてやアカシックレコードを追い求めている人にとって、これ以上ない技術だ。
マインドフルネス、スピリチュアル、自己啓発など心の中を変えようとしている人も体験しないで死ぬことなかれ。
今までやってきた瞑想法って何だったのか?
ガキの遊びだったのか?
それともまやかしだったのか?
そう疑問に感じている方ならなおさら、びっくりして感動して、そして心の底からの涙を流すであろう。
今日はここまで。
誇大文句でもなく、今日私が綴ったこの文章は多くの人が味わっている真実だ。
いまは雲をつかむような話、しかしこの脳覚醒瞑想の凄さを私もぜひ伝えたい、表現したいと思ってる。
そして、受けたくない人は別に受けなくてもいいけど、脳と人間のもっとも根本の本能・情動レベルから自分を変えていきたい、パワーアップさせたいと考えている人ならば、必ず受けるべきだ。
これ以上にすごい鬼才とその技術は世の中にはない。
過去ログです
脳覚醒状態と岩波トランス誘導技術
私は瞑想というつかみどころがないものに心が惹かれながらも、奇跡という現象には眉唾をつけるところがある。
世界にもいないしこれからも現れないだろう。
だから奇跡的な存在だし、出会えたのも奇跡だ。
過去ログです
『悟り的気づき』と『奇跡の脳覚醒状態』を体感
瞑想、自己啓発、多くのことを経験してきた。
その中で岩波先生がすごいとの噂を耳にする。
正直、最初はあんまり期待していなかった。
たくさんのことをやってきたが、あまり変われなかったからだ。
すごいといわれても、すごさの程度がわからない。
すごいのはちょっとすごいだけで、別にすごくはないのではないか?
しかし別次元すぎるという評判にかけてみようと思った。
半信半疑だったし、参加者の多くもサクラだと思っていたが、いざ自分の番になって、脳覚醒状態(のほんの浅い状態)に入ることで、それらの疑念がすべて崩壊した。
音を立てて一気に固定観念が崩れた。
俺はその時瞑想の瞑想の可能性を感じた。
私のこれまでの体験からしたら、奇跡に近かった。
岩波先生が奇跡を起こしたというより、俺の全身が奇跡の体感に浸っていた。
それですら、ほんの浅い状態に過ぎなかったが。
脳覚醒状態の質がさらに上がっていったが、「悟り的気づき」を得られる段階まで行くと、急に日常でも会社でも楽になっていた。
理屈でわかるレベルの浅い段階での理解ではなく、ピンポイントですべてが理解できるから、変に楽で落ち着いていた。
パワハラ上司に何を言われようが、非常にクールでそれらを客観的に見ている自分がいた。
「あー、いっているよ、こいつは、どうしようもないな、勝手に言ってろ、どうでもいいから」と受け流せていた。
こうなるとストレスなんて微塵も感じなくなっていった。
逆にパワハラ上司に余裕の気配りができるようになっていった。
無理にそいつに合わせるのではなく、自然とできる。
そいつは人間関係が下手なんだから、私がサポートしてやろうとすら思えた。
前は近づくことすら嫌だったし、生理的嫌悪感を抱いていたのだが。
人間は変われる。
結局は、怖いと思っていたのは、自分の脳みそだったということ。
パワハラ上司は昔も今も変わらないし、未来も変わらないだろう。
そうやってしか生きられないかわいそうなお人なのだから。
しかし、私の中で解釈がすごく変わった。
怖い感情を作り出していた私の心が、「どうでもいい」気持ちになっていた。
「怖くても怖くなくても関係ないよ」そんな悟り的気づきだった。
この「どうでもいい、だからなに」という心境は無敵だと思う。
こういう達観した気持ちになれてからは、すべてのしがらみから解放されたと思う。
自分を縛り付けているのは、環境ではなく自分の心しかない。
それが覚醒瞑想状態で気づくことができた。
心も体もふと力が抜けた時、すごく楽でたまらない。
俺が追い求めていたのは、そういうところだった。
本当に岩波先生に出会えてよかったと思う。
そして、先生の誘導する脳覚醒状態の効果のおかげだ。
人は変われない。それが変われるってことは、尋常ならざる誘導技術じゃないといけないのだと思う。
ちなみに、変われると言っても洗脳ではない。
詳しくは岩波先生の言葉集がある。
イキイキとした人間と脳の作り方ができる技術なんだと思う。
過去ログです
瞑想を始めた理由 私の劣等感と不安感とうつ状態
心の安らぎが欲しかった。
しかし、パワハラや激務やストレス、そして人間関係への疲れから求めようとしても到底求められるものではなかった。
それは私が一番知っていた。
ストレスを貯めてしまう人間なのは一番自分が知っていたし、不安感を人一番感じやすかったからだ。
ストレスの受け流し方なんてどうやればいいか皆目検討がつかない。
なぜ人は笑えるのかも忘れてしまった。
それぐらい私の脳はストレスで満たされていた。
私にもいい時はあったが、激務とストレスでその記憶すら遠のいてしまった。
私は生きる屍になりつつあった。
感動したこと、楽しかったこと、すべてが空虚にすら思えた。
なんで人は生きているのか、笑っていられるのか感覚的にもつかめなくなった。
いよいよ私の心は病み始めていた。
なんのための人生だったのか?
憂鬱に生きるためか?
職場の人間に気を使うためか?
ムカつくパワハラ上司に怯えるためか?
今は自分のための人生だ!と声を大にして自信を持って言える。
しかし当時は答えが出なかった。
感覚的にわからないのだ。
理屈では頭に入っていたが、それだけじゃどうにもならなかった。
私にもいい時は確かにあった。
楽しい時もあった。
しかしそれは一瞬で、あとは苦しみだけに思えた。
たった一瞬の楽しさのために人間は生きているのだろうか?
私は存在しているのか?
なぜ人は頑張れるのかもわからない。
どうやらエネルギー切れ寸前だったらしい。
会社を変えよう、職業を変えようとは考えた。
しかしリスクが大きいと思って踏み出すことができなかった。
また同じ嫌な目に合うのだろうと勝手に思い込んでいた。
そんな意気地なしの覇気がない自分にまた劣等感を感じた。
世の中の成功者や楽しんでいる人間が恨めしく思えてきた。
なぜ奴らのように楽しめない?
成功したくても今のままじゃジリ貧だ。
だが成功の方法も全くわからなかった。
しかし私は困ったことにプライドだけは高かった。
そのくせ自信はそれに見合ったものがあるとはいえない。
中途半端に学業で成功し、名の知れた会社にも就職できたが、プライドだけが増大化し、それに見合うだけの自分にはなっていない事実を恐れた。
私はできる人間のはずだが、もしかしたらダメ人間かもしれない。
そういう現実が怖かった。
お前は所詮ここまでの人間よ!と神様に言われている感じもした。
ここまでの人生か、所詮俺の人生は・・・・・これらのことをずっと永遠考えていて、しかもなんの進展もない。
これでは頭がどんどんおかしくなるのも当然だった。
当時は完全に脳の機能が低下していた。
この劣等感と不安感とうつ状態で苦しみ続けた。
相変わらずパワハラ上司は威張っていて、人に仕事を沢山押しつけ、そのくせ部下の手柄を横取りする。
ちょっと何かあると人前でどなり散らす毎日。
出口が見えなかった。
こうなると家にいても私は心休まる日はなかった。
私から安らげる場所が奪われた。
いつでもどこでも何をしていても嫌な上司の顔が浮かんでくる。
くだらない人間だとはわかっている。
あいつも相当小心者で不安を感じやすい奴だとは頭でわかっていた。
そうじゃなきゃあそこまで歪んだ人間にならないはずだ。
だが、頭で理解しても、私の心はパワハラ上司の幻影に苦しめられていた。
そんな自分にも飽きれたしますますコンプレックスを持った。
そんな中での瞑想との出会いだった。
まずは本から入り、瞑想の何たるかを学んだ。
これはいけると直感で思った。
私の現状の問題点はこれで解決できると思った。
何者にもとらわれない自由な心、魂の開放、ストレスフリー、コンプレックスの解消、人間的な感情の再生と多くの希望を見出した。
だが世の中はなかなかうまくいかないらしい(笑)。
人生の迷走を正すために始めた瞑想で、その中ですら迷走し始めた。
人間は一つの心と身体を持っている。
何をしてもどこに移動しても必ず同じ心の弱点を適用してしまう。
瞑想はそれを受け流せというが、そう簡単にできたら心の問題は世の中からすぐに無くなるだろう。
私が嫌な上司の顔をいつでも思い浮かべてしまったように、座禅を組んだところで、私のマイナスの思考はどこでも押し寄せてくるのだ。
過去ログです
私が瞑想に興味を惹かれた理由 やり始めるだけの人生を私は送っていた
私はもともと不安を人一倍感じやすい人間で、ストレスも溜めやすかった。
そして生きている実感を常に得られていたかというとそうじゃなかった。
自由に生きていなかったと思う。
鬱屈した抑圧されたものを潜在意識に抱えて生きていた。
そりゃあ、いいこともあった。
人間関係がうまく行っていた時もあったし、学業、スポーツの分野でもコンプレックスを感じてきたわけではない。
手先も器用だったし、自分の能力的なものの不足は感じていなかった。
それが私の学生時代だった。
しかしこの世の中で一番うまくいかないものが、社会組織と人だ。
特に人間というやつは組織を形作っているわけで、この人間に私は心身ともにやられていった。
もともと不安感が強い人間が、私に合わない環境に飛び込んだ時(それは社会人一年目)、激務とストレスとパワハラでどうなったか?
私はうつ病になりかけた。
社会的に抹殺されそうになってしまったのだ。
私の一番の弱点はメンタルに弱いところがある。
強いところもなくはないが、弱点がすべてを上回ってしまうほどだった。
対人不安感で私は今までどれだけの損をしてきただろう?
そのくせプライドは強く、人に負けたくない気持ちは強かった。
それが私のパワーの原動力になったと同時に、劣等感を増すマイナスのエネルギーともなっていた。
人から笑われたり、バカにされたりすると異常にプライドが傷つく。
一週間以上も悩み続けた。
かといってその抑圧のはけ口もなかった。
だからどんどん鬱憤が溜まっていく。
趣味の世界で抑圧を解消させようとしても激務で時間が取れない。
そのくせ普通に仕事をこなしていても、最悪の人間性を持った性格が歪んだ上司がパワハラをしてくる。
理不尽な要求をされ、それを必死でこなしても、褒められることがない。
パワハラや職場の人間関係でのストレスで、どんどん私の心は消耗摩耗していった。
どうにかパワハラ以外では人間関係を円滑に進めようとしていたし、表向きはまあまあよくやれていた。
しかし、私の心だけは騙せなかった。
「俺はしっかり悩まずやってますよ」的な演技をして周囲に合わせている自分に疲れていった。
仕事に行く足取りは重くなり、気づけばため息ばかり。
イライラした気持ちもあった。
もう何もかも投げ出したかった。
フリーになって、自分の足で自由に進みたかった。
しかしそこまでの勇気はない。
会社の社畜としてしか行きられない自分を情けなくも思った。
このままでは私の人生は何だったのかわからなくなる。
きっと死ぬときに後悔をするだろう。
社会人一年目から私は早く引退したいとまで思っていた。
それほど疲れていた。
環境の激変で人は病み始めるらしい。
しっかりとした自分が確立されていないから、ちょっとした異動でストレスに心が耐えられなくなる。
仕事への充実感や夢実現へ頑張ることなど、いつの間にかなくなっていった。
心がきしんだ音を立てていることだけは自分でわかっていた。
逃避したい気持ちがどんどん強くなっていった。
人生はまだまだ長い。
5月病をずっと患っていた私は、何かの答えを求めようと思ったのか、会社の休み時間に本屋をさまよっていた。
その時ふと目についたのが瞑想関係の本だった。
この本を読めば会社の疲れもストレスもなくなり、理想の自分になれるという。
心、この時私はピッと何かを感じた。
これだ、この方法なら私は救われると直感で思った。
読めば自分のコンプレックスもなくなる(とらわれなくなる)らしい。
今まで瞑想だのスピリチュアルとか精神世界のことは全く頭になかった(と思い込んでいた)私には、新しい世界が待っているような気がした。
こうして私は瞑想に急激にのめり込むことになった。
しかし瞑想とは迷走であるということを思い知った。
しかし本物と出会うまでの瞑想追求の行動は役立たなかったわけではない。
心構えとか己の心との向き合い方とかたくさんのことが学べた。
これが現在の覚醒瞑想へ通じることとなった。
人生に無駄はなにもないのだ。
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岩波脳ワールドの神秘性と可能性と衝撃
脳って神秘的すぎる。
これは本で脳の神秘性を読んで思った感想ではなく、実際に脳の奇跡を目の当たりにしたから書いています。
岩波先生のプログラムを受けている人は、誇張もお世辞もなく世界で最も進んだ最も深い脳の不思議な世界を味わっていることだろう。
とんでもないことが起きてしまう。
脳のビッグバンといってもいい。
脳の中がいっきに活性化する。
それも一番脳の深い部分にある本能が非常に刺激される。
原始的な感情の世界に入って行く。
しかもただのビックリ体験だけじゃない。
そのトランス状態(脳覚醒状態)では、理性での努力では決して手の届かない心の整理と強化ができる。
心が洗われる体験、感情がばっとほとばしる体験、恍惚感に包まれる体験、誰かと広い意味での愛を分かち合いたくなる体験、たった一瞬の現実の時間でありながら、それが一週間以上も寝ていて目覚めたぐらい深い体験、自分に絶対的な自信を持っている体験と、これは私が体験した体感だが、無制限とも思える脳の可能性が味わえる。
だから暗示が建設的に脳に組み込むことができるし、脳の原始的情動にある抑圧や心の傷を嘘のような癒せることができる。
マイナスを減らし、プラスを入れこめるという私たちが一番欲する精神状態に岩波先生の元でなれるということ。
しなくても深い衝撃的な体験を得られるが、せっかくのこれだけの可能性を持った技術なのだから、こちらがわの努力がなければ勿体無い。
していない人は、どうもインパクトが強いだけで、その後の一番重要な余韻の心地よさを味わえていないだろう。
もったいない。
世界で一番最先端な体験を、みずから放棄しているようなものだからだ。
してきた人ほど、その余韻の中で脳の深い分野の扉が解き放たれているから、今まで書いてきた奇跡的な脳の処理ができている。
過去ログです
人が変わる時、脳が激動していなければいけない
人間って変われないものですね。
といったらもう話が続かなくなるが、たしかにいい方向に変わることは異常に難しい。
簡単に悪い方向には変わってしまうが・・・・・・
変わるための絶対条件は脳が激動しているかどうかだ。
脳が動くというと物理的にはボクシングで顔にパンチを受けた時、脳が動き、ストンとKOされてしまうことを想像するかもしれない。
しかし、私の言っている脳が動く意味合いは、脳の中で何かがはじけ飛んでいる状態のこと。
それができるのが覚醒瞑想だ。岩波先生のスゴワザだ。
脳から全身に何かが迸る(ほとばしる)感覚!
心地よい電撃に撃たれたような感覚、そのとき以上に脳が激動しているのだ。
その時、人は変われる。
私自身その覚醒瞑想による異常なトランス状態(異常ではなく超気持ちいいのだが)で、脳が動き、より強くたくましくしたたかに変化することができた。
脳の激動により、私の目の前で多くの人がやはりいい方向に変わっている。
これは通った人の体験記に多く書かれてあるので読んでみて欲しい。
脳が異常に動いた時、それはマイナスの処理もできてしまう。
脳の本能レベルにこびりついたマイナス要因が、剥がれ落ちていくような感覚で。
それは悩みに使えばトラウマ処理になるし、抑圧をずっと抱えてきた人は、抑圧を解消できるし、プラス方向にもどんどん変化できる。
人は心が動いた時、その人が好きになったり(恋愛)、逆に百年の恋も冷めたりする(幻滅)。
まことやっかいなのであるが、脳が動くってもっとそれよりも深層のレベルの話で、その人の存在価値まで変えてしまう。
とにかく心も脳も動くからこそ生きている。
動かない脳や心は、生きているけれど死んでいる状態だと思う。
過去ログです
本能と情動の刺激と解放が生きる意味を与えてくれる
我々は理性という鎧を守って世の中を生きている。
しかし、この鎧がただの重荷になってはいないだろうか?
もしくは理性という鎧があまりに重すぎて、武器を持つことができていない状態になっていないか?
あまりに理性で自己防衛をしてしまうと、一番大切な情動の炎が尻すぼみになってしまう。
我々は子供の頃、もっと輝いていてはずだ。
感情が豊かで、見ること知ること体験することすべてが感動に満ち溢れていたはずだ。
しかし今はどうだ?
理性的過ぎるという毒に全身を蝕まれていないか?
何か事を成そうとした時、理性で状況判断しすぎて夢を捨てていないか、諦めていないか?
生きている実感をも損なわせてはいないか?
そしておっそろしいことに、我々が生きているこの社会では理性の大切さを説きながら、本能と情動を輝かせて生きていこうとする人を排除しようとしている。
そうでありながら、出世したり成功をおさめるのは、理性ではなく本能と情動を躍動させた人だけという矛盾した現実がある。
人間の最も大切な本能と情動を尻すぼみにさせる現代の人間社会だ。
ということは、ただ平凡に生きている人は、ただ理性をふんだんに使い、生命力を削って老い衰えていくということになる。
でも、瞑想や気功でもいい、とにかく理性じゃない、もっと別の深いところに人間の最も大事なものが隠されている、そう感づいた人が私達だ。
我々は理性じゃないもっと根っこのもっと大きなもっと可能性のある分野を探求しようとするいわゆる脳と精神の冒険者だ。
悪けれど、ただ平凡に生きている人は絶対に興味を持たない分野を我々は追求し続けている。
だが! 瞑想を例に取るならば、そんな素晴らしい分野である瞑想にさえ、我々は理性を使って、瞑想状態を深めようとし、ある真理に到達しようとしている体たらくだ。
理性の限界に気づいている人間でも、理性世界とは別の次元にある瞑想世界において理性に頼ってしまうおっそろしい現実!
こんなことでは一生追求しても本能と情動を刺激し、脳力を覚醒させることには至れない。そして瞑想によって、生きる意味と真理を見出すことなんて不可能だ。
だが、本能と情動が刺激され、人間の最もエネルギーに満ち溢れているこの分野が覚醒した時、大げさだが人は無敵になれる。
少なくとも絶対感を持った存在になれる。
心と脳が柔軟でありながらぶれない、覚悟と肝の座った、そして感動に満ち溢れた人間にパワーアップできる。
生きている実感がなければ生きている意味は無いと思う。
理性のみでは実感を得られない。
そこに感動があって、はじめて理性の喜びも得られる。
ならば、せっかく瞑想をやるのならば、ダイレクトに本能と情動の一番深いところを刺激できる瞑想法に取り組んだほうがいい。
理性を使う、使わないの低レベルの自分との戦いなんかしていたら、あっとういまに人生は老いの方向に進んでいってしまう。
本能と情動が刺激された時、ものすごい感動が待っているだろう。
生きている意味とか書いたが、結局意味なんて求めてもしょうがなく、要は生きていて感動を味わえるかどうかだけの単純な話にすぎない。
原始的で情動的で本能的感動を味わえた人が人生の勝者だ。
私は岩波先生の覚醒瞑想(脳覚醒技術)を受けてから人生が変わった。
瞑想で迷走していたのが180度方向転換できた。
人生の一番の意味は何なのかつかむことができたし、先生の技術を通して実際に体感できた。
岩波先生も言っているが、実感が無い理性や知恵や理屈の世界でいくら偉そうに講釈しても、たった一回の深い感覚の前には鼻くそに過ぎない。
子供の頃のような本能が全開にしていた感覚を私は取り戻すことができた。
情動が豊かになった。
そして情動に振り回されず、コントロールできるようにもなった。
情緒不安定だった私だが、ぴたっとそれがなくなった。
不安があると自分で抑制できず、逆に振り回されていたのだが、不安自体が小さく感じるようになった。
理性ですべてを解決しようとしていた時の私からみたら信じられない変わり様だ(従来の瞑想法では私は理性で何とかしようとしていた。当時は気づかなかったが、くだらない知恵を使っていたようだ)
本能・情動が再生された私が理性の力が衰えたかというとそうでもない。肝
心な時に自分を律せられるようになった。
かといって理性に飼われている惨めな状態でもない。
自分というものが、理性の枷から大きく外れて自由になった。
本当に楽になれた。
なぜ自由になれたのか、それには理由がある。
覚醒瞑想ほど深い覚醒トランス状態に入れると、自動的に、あるいはこちらの観念で、自由への障害となっている抑圧や壁を破壊できるようになるのだ。
そこが最強の瞑想法のすごい効果を与えてくれる。
情動を大きく揺さぶり、理性の枷を外して、自分を存分に人生という舞台で発揮しよう!
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だらだらと瞑想を続けるならば、いっそのこと瞑想を捨てよう!
瞑想は時間をかければいいというわけではない。
ダラダラと時間をかけてしまうと瞑想の極致には到達しない。
なぜならば人間の脳は常に刺激を好んでいる、待っている。
刺激がない脳には倦怠感、惰性、抑うつ状態が押し寄せる。
瞑想は特に実感を味わいにくいものだ。
実のところ偉いお坊さんでも、座禅だの瞑想だの講釈をたれ、ありがたい教えを授けてくれる一方で、深い瞑想状態を味わえていない人が多いらしい。
より
偉い高僧の方々でも瞑想の極致に到達できるのはほんの一握り(しかもその深さや到達度は岩波式覚醒瞑想で誘導されるとショックを受けるぐらいの差がある)。
毎日毎日座禅を組む機会があるにも関わらずだ。
脳の壁を突破するすべがないから、ただ闇雲に瞑想をするしかない。
(それでも何か拾い物があるのが、瞑想なのだが。)
ならば我々一般人は、いくら瞑想に興味があろうとも、その極致に到達するのは難しいだろう。
何よりも怖いのは、なんにも変化のないまま無為に時間を過ごした時の脳の惰性化だ。
これが非常にやばいのだ。
常に進化し続けられない瞑想は、やればやるほど退化していく。
脳が死んでいく。
脳は一度覚えた感覚(この場合は瞑想状態)を忘れないと言われているが、無意味な時間を費やして惰性化した脳は、どんなに頑張っても昔体感したレベルでしか瞑想状態を得られなくなる。
つまり永久に進歩しなくなる。
理想は常に脳が深く掘り下げられて、その体感が更新していくことだ。
だが、変化もなく努力した割には体感も結果もついてこないとなると焦る。
焦るとイライラや雑念が押し寄せてくる。
今度はそれらを排除しようとして戦ってしまう。
受け流さないければいけないことは頭ではわかっているが、どうしても効率良く進めるために必死に対策してしまう。
その対策すら理性の部分であるから、ますます頭が重くなっていく。
こうなるともう一生瞑想で成果を挙げられなくなる。
それならば瞑想や座禅などをしてきた時間を他の有意義なことに振り向ければよかったと後悔することになるかもしれない。
あるいはもはや体感での悟り追求を諦め、本を読みまくり知識が増えていく(こういう人間をたくさん知っている)。
いっちょまえに瞑想論を大学教授のように語ることができるけれど、しょせん瞑想状態を深く味わえない人間の言葉は薄っぺらい。
こうなると、いつのまにか理性や知恵のレベルではないところで己を探求する目的であったのに、ただの頭でっかちと理性肥大化人間になっているに過ぎない。
私もこうなる恐れがあったし、実際そのルートを歩んでいた。
進歩ではなく退化、レベルアップではなくレベルダウン、しかも時間をかけての答えがこれなのだ。
平凡が嫌で打破しようと瞑想をやるが、平凡を強化する、錯覚でも自分の脳が大した事がないことに気づく。
これはこわい、おそろしい、やばい。
時間が限られた中で私達は勝負していく。
そのためには何の役に立たないことにすぐ見切りをつけるべきだと思う。
可能性だけじゃ、大きな効果は不可能だ。
脳はすぐ惰性化する。腐っていく。
そして死んでいく。自分の人生は何だったのか、という後悔はもうたくさんだ。
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脳覚醒瞑想の超越した効果を体験する
世の中には数多の瞑想法があるが、しょせん瞑想ごっこ(関係者の方ごめんなさい)の遊び場を提供してくださるだけで(急に敬語になってしまった)、効果はあまりない。もちろん瞑想で大きな精神的成果を出せた人は凄いことだし、尊敬するしかない。
そしてその手段を提供してくれた瞑想法の存在価値も確かにある。
といっても、逆に精神的成果を挙げられない人の資質や努力不足で片付けられてしまったら身も蓋もないだろう。
そもそも目的があって私達は瞑想を始める。
そして成果を出すために瞑想をやり続ける。
ならばなるべく最大多数が効果を感じなければ、存在価値は減じてしまうだろう。
誰でも強い実感と効果を感じられる瞑想法でなければ、お金と時間がもったいない!
命は一個しかないのに、たかだが90年ほどしか生きられないのに、更に言ったら現役の時間はそれこそ短いのに、効果があったかどうかわからないレベルで瞑想をやり続けるのはもったいない。
時間はほんとうに貴重だ。
死ぬ間際に悟っても、それまで味わい続けた苦悩の日々と苦労の量を果たして取り戻せるのか?
そのために圧倒的な体感と全身全霊で得られる感動と気づきを早期に得られなければならないと思う。
それが文字通り得られるのが岩波先生の覚醒瞑想だ。
いままで感動の涙を流したことがあるか?
瞑想をやり尽くした人ならば一度くらいはあるかも知れない。
心が動き、心が洗われる経験や喜びを。
しかし、残念ながら、多くの人はそこに至らない。
それに感動と涙のレベルまで至った人でも、毎回瞑想をやれば涙を流すかというとそうじゃない。
最高の感動を毎回味わえるのが岩波先生の脳覚醒技術だ。
それも毎回毎回その感動とすごさの度合いが増す。
それこそ私の存在の一番深い根底から、心が揺れ動く。
脳の奥深くの扉が開き始める。
生きている喜びを全身で味わい、俺は俺だ、俺はこれ(俺のまま)で行くぞ! という強烈なモチベーションというか、一本芯の通った誰にも曲げられない強い決意と信念が生まれる。
私はその時無敵に自分を感じる。
そして大きな強い武器を身にまとっているように感じる。
そのくせ非常に心地よい安心感にも包まれている。
ここまで散々瞑想をやってきた私が、こんなにも安心し、こんなに高く、こんなにも強い実感を伴った感覚になったのはもちろん初めてだし、他の瞑想法では決して得られることは絶対にない。
超鬼才の作りだす強烈でとんでもなくくつろげる瞑想状態(もはや瞑想とは呼べない別次元のもの)をぜひ味わって欲しい。
ありえない感動感激、凄みと圧倒と非常に心地よいくつろぎ、そしてすべての私の虚飾やくだらない知恵やプライドが削ぎ落ちた「裸の自分」の楽さ。
ここに必ずや至れるようになる。
身一つでだ。
実感があるから人は変われる。
並ではない実感ならば劇的に変われる。
ぜひ岩波先生の創りだした脳覚醒技術で、決してブレることのない自信と真の誇りをもった自分になろうではないか。
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悟りは求める者には降りてこない過酷な現実
瞑想は、ある悟りを得るためにやるもの。
その悟りの次元や大小強弱と種類はあるけれど、みんな何かを発見したい、気づいてパワーアップしたい、心を整えたいと思っているのは、そんなに外れた意見ではないと思う。
だけれども、悟りというやつは、求めるものには絶対に舞い降りてくれない悲しい現実。
すごく矛盾しているけれど、要は求めているんだけど、それすら捨て去ることができる人間だけが悟りの境地に達するんだと思う。
まだまだ次元の低い悟りだけれども、私なりに多くの悟りを得ることができた(岩波先生の言うように高尚な悟りだけが悟りではない。先生はそれを気づき、悟り的気づきと言っている)
そのどの瞬間も、やっぱり求めていたら遠のいて、それで迷って焦っての繰り返しだったの。
しかし、家でトランス呼吸法をやり続けていた時、ふと力が抜けてもうどうでもいいやーと思った時に急に「あっ!!!!」と思うことが何度もあった。
岩波先生の脳覚醒瞑想誘導のときもそう。
無理に自分から脳覚醒状態(トランス状態とか超変性瞑想状態)に入ろうとすると深さがなく余韻も短く、それを捨てた時、急激に全身の力が抜け、瞬間的に深い脳覚醒状態に入れる。
トランス呼吸法もまったく同じ理屈で、いくら5時間呼吸法をしようが何の変化もなくただ苦痛と時間と雑念との戦いに入っていたのが、あら不思議、「もういいやどうでもいいやなるようになれよばからしいー」となった時に、にわかに呼吸法の質が向上し、ものすごい波動が出ているような息を吐けるようになったことが何度もある。
つまりいずれの次元の悟りにおいても、求め続けるスケベ根性と知恵のかたまりの人は排除されてしまうということ。
まあ、岩波先生の瞑想法の技術ならば、スケベ根性とか知恵とか意図的に悟ろうとする雑念のようなものの、遥か上を飛び越えてくれるから、いずれは誰であっても深い覚醒瞑想体験ができるんだけどね。
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