瞑想を始めた理由 私の劣等感と不安感とうつ状態
心の安らぎが欲しかった。
しかし、パワハラや激務やストレス、そして人間関係への疲れから求めようとしても到底求められるものではなかった。
それは私が一番知っていた。
ストレスを貯めてしまう人間なのは一番自分が知っていたし、不安感を人一番感じやすかったからだ。
ストレスの受け流し方なんてどうやればいいか皆目検討がつかない。
なぜ人は笑えるのかも忘れてしまった。
それぐらい私の脳はストレスで満たされていた。
私にもいい時はあったが、激務とストレスでその記憶すら遠のいてしまった。
私は生きる屍になりつつあった。
感動したこと、楽しかったこと、すべてが空虚にすら思えた。
なんで人は生きているのか、笑っていられるのか感覚的にもつかめなくなった。
いよいよ私の心は病み始めていた。
なんのための人生だったのか?
憂鬱に生きるためか?
職場の人間に気を使うためか?
ムカつくパワハラ上司に怯えるためか?
今は自分のための人生だ!と声を大にして自信を持って言える。
しかし当時は答えが出なかった。
感覚的にわからないのだ。
理屈では頭に入っていたが、それだけじゃどうにもならなかった。
私にもいい時は確かにあった。
楽しい時もあった。
しかしそれは一瞬で、あとは苦しみだけに思えた。
たった一瞬の楽しさのために人間は生きているのだろうか?
私は存在しているのか?
なぜ人は頑張れるのかもわからない。
どうやらエネルギー切れ寸前だったらしい。
会社を変えよう、職業を変えようとは考えた。
しかしリスクが大きいと思って踏み出すことができなかった。
また同じ嫌な目に合うのだろうと勝手に思い込んでいた。
そんな意気地なしの覇気がない自分にまた劣等感を感じた。
世の中の成功者や楽しんでいる人間が恨めしく思えてきた。
なぜ奴らのように楽しめない?
成功したくても今のままじゃジリ貧だ。
だが成功の方法も全くわからなかった。
しかし私は困ったことにプライドだけは高かった。
そのくせ自信はそれに見合ったものがあるとはいえない。
中途半端に学業で成功し、名の知れた会社にも就職できたが、プライドだけが増大化し、それに見合うだけの自分にはなっていない事実を恐れた。
私はできる人間のはずだが、もしかしたらダメ人間かもしれない。
そういう現実が怖かった。
お前は所詮ここまでの人間よ!と神様に言われている感じもした。
ここまでの人生か、所詮俺の人生は・・・・・これらのことをずっと永遠考えていて、しかもなんの進展もない。
これでは頭がどんどんおかしくなるのも当然だった。
当時は完全に脳の機能が低下していた。
この劣等感と不安感とうつ状態で苦しみ続けた。
相変わらずパワハラ上司は威張っていて、人に仕事を沢山押しつけ、そのくせ部下の手柄を横取りする。
ちょっと何かあると人前でどなり散らす毎日。
出口が見えなかった。
こうなると家にいても私は心休まる日はなかった。
私から安らげる場所が奪われた。
いつでもどこでも何をしていても嫌な上司の顔が浮かんでくる。
くだらない人間だとはわかっている。
あいつも相当小心者で不安を感じやすい奴だとは頭でわかっていた。
そうじゃなきゃあそこまで歪んだ人間にならないはずだ。
だが、頭で理解しても、私の心はパワハラ上司の幻影に苦しめられていた。
そんな自分にも飽きれたしますますコンプレックスを持った。
そんな中での瞑想との出会いだった。
まずは本から入り、瞑想の何たるかを学んだ。
これはいけると直感で思った。
私の現状の問題点はこれで解決できると思った。
何者にもとらわれない自由な心、魂の開放、ストレスフリー、コンプレックスの解消、人間的な感情の再生と多くの希望を見出した。
だが世の中はなかなかうまくいかないらしい(笑)。
人生の迷走を正すために始めた瞑想で、その中ですら迷走し始めた。
人間は一つの心と身体を持っている。
何をしてもどこに移動しても必ず同じ心の弱点を適用してしまう。
瞑想はそれを受け流せというが、そう簡単にできたら心の問題は世の中からすぐに無くなるだろう。
私が嫌な上司の顔をいつでも思い浮かべてしまったように、座禅を組んだところで、私のマイナスの思考はどこでも押し寄せてくるのだ。
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